1981年の夏、私は福岡の私立大学の1年生だった。照りつける都会のアスファルトの暑さから逃げるように、長野の野辺山、清里高原にバイト先を求め、高原野菜を育てている農家に住み込んでいた。

週刊アルバイト情報から切り取った募集広告をもって南牧村の農協を尋ねたのは、もう昼過ぎのことだった。
奥まった応接室には、住み込み先になる菊地のおやじさんがいた。
麦藁帽子をかぶり、畑仕事を抜け出してきたという姿はどこか滑稽であり、幼子の時と同じ光景が浮かんでくる不思議な空間だった。
農協の事務方の簡単な手続きが終わるとすぐに、住み込み先に向かった。

軽トラは山間の山道を駆け下りるように谷に向かって降りていった。
一面に杉林が広がり、千曲川と少しばかりの田んぼ、少し蛇行した河辺に数十戸ほどの広瀬の集落が見えた。
離合もできないほどのアスファルトや砂利道が続く川べりの集落の入り口におじさんの家があった。

「まあ、あがってケロ。」とおばさんが話しかけてきた。
ケロやズラといった語尾には特徴があるが、特に意味不明というほどの方言ではなく、ほっとした。
東京から1時間ほどで来ることができる場所なので、結構住みやすい良いところかもしれない。

翌朝からは朝6時から夕方7時まで農作業漬けで、休みがないのかと思う閑もなく、毎日、野菜の出荷が続く。
野辺山の出荷場に白菜、キャベツ、グリーンボール、サニーレタスが運ばれ、朝露の残る明け方から箱詰めが始まる。
黒いマルチシートは昼近くになると焼け付くような日差しが追いかけてくる。キャベツの収穫は包丁を持って根切りしながら一玉ずつ畦に置いていく。
同じようなサイズのものを入れ込んでいくが、意外に大きさが違っても箱に入れるときなぜか同数がぴったり収まってしまう。
この繰り返しの生活が続く。
作業が終わると晩酌をし、疲れて寝てしまう。

結婚直前のお姉さんが毎日世話をしてくれた。
則子さんという彼女はきれいで、なぜか気が合い、色々と話し込んでしまった。
休日があってボーリングに行こうと誘われたが、私なぜか照れて断ってしまった。
青色のTシャツを買ってきてくれたときの笑顔は、涼しそうなワンピースを着て、透き通った肌をしていた。
何年も経って富山の会社YKKに入社し、遊びに行った時に私の友達も魚津にいるので遊びに行きたいなどと非常にひたしげに話しかけてくるのを、血筋だと後で思うようになった。

この綺麗なお姉さんには妹がいて、私と同じ年で、大妻女子大学の1年生だった。
8月に行ってから帰省し、お姉さんと入れ替わるように家事や畑仕事をするようになった。
同世代なので色々と話題があったのだろうが、さほど会話をしたわけでもなく、おじさんやおばさんの方が話の話題はあったような気がする。

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八ヶ岳の全景

ある日、なぜだか寝坊して朝の出荷に間に合わなかった。
ひとりでご飯を食べ、7時に野辺山に行く途中の白菜の畑に歩いて行った。坂道だったがさほどの距離もなく、ほんの10分ほどの道程だった。少し谷の方に傾斜をもった畑で、トラクターにブルトーザーのようなショベルを取り付け収穫に使う。
20個ばかりを箱詰めし、トラックの荷台に積み込む。荷台の後ろの方に行くと積み上げたものが崩れるので、縦横に重ねて倒れないようにしたら、おじさんがとても関心していた。

種子島(島間)の港で荷物の積み下ろしのバイトをしたり、島のあちこちに荷物を配送していたので、農家の次男坊ということもあって、仕事が全く疲れないと親に感謝した。

思い出すのは、自分の父親が同じ運送屋に勤めていたことだ。
大型クレーン車や大型特殊の免許を宮崎まで行って取ってきたりして、過疎の進んだ田舎で曲がりなりにも給料をもらっていた。
まかり間違って違う家に生まれていたら、大学はおろか高校にも行かせてもらえなかっただろう。実際、中学の同窓生は集団就職のように大阪や東京に就職していった。
そういうこともあり、大学の長期休暇は働くことが当然だった。

話を戻すが、父親がロケットの本体を10トンの大型トレーラーに乗せて、私が助手として茎永まで一緒に行った。ここら辺があやふやなのは、問題は帰り道だからである。
父は細い山間の小川のガードレールの幅を10トン車が通過できるか見に行ってこいと言った。ギリギリだと思ったが、OKを出した。徐々に進んだが、大きな車輪がガードレールに食い込んでしまった。
今でも同じように談話すると思うが、大きなタイヤに亀裂が入り始めたのを見て、とうちゃん、ダメだと言った。

すると父が降りてきて、状況を確認し、工具箱から大きなスパナを持ち出し、ガードレールを外し始めた。長さが2メートルほどのもので、2人ではずし、トレーラーを前進させて通過させた後、ガードレールを取り付けた。
父はニヤリと笑い、タイヤを蹴り飛ばして缶コーヒーをひとつ放り投げた。この光景は今でもたまに思い出す。

同時期にバイトをし始めた仲間と飲む機会があった。
早稲田の桜井君だけは名前まで覚えている。他に龍谷大学だと言っていた迷彩服の学生の名前は出てこない。
桜井君の住み込み先は牛を飼っていて、その牛小屋で寝泊まりしているといっていた。
イメージはあまり良いとは言えないが、私の実家でも和牛を25頭ほど飼っていたことがあった。

小学、中学の時には週一、二で夕刻、さつまいもを棒の先に十字の刃物のついたもので細かく切り裂き、わらと飼料を混ぜてすべての牛の分を用意した。牛フンもスコップで処理していたので、乾いたらさほどのものではないが、あまり良い仕事や環境ではなかった。
牛の飲み水は円形の鋳物製のボールの中に、鼻先で押すと水がたまるように取っ手がついたもので、牛は好きなときに飲んでいた。

ここら辺の牛といえば和牛ではなくホルスタインなので、少し買っては違うのだろうとは思う。
彼は早く9月になればとバイト先を間違ったかのような話をし始めた。飲み屋が近くにあるわけでもないので、公民館だったか民家だったか、その宴は終わり、3人で住み込み先まで歩いて帰った。
川を越えてけっこう長い道のりだったので、富山に就職してから場所を確認したら、その公民館の周りにはあまり民家はなく、寂しいところだった。そのころはもっと距離が短く、何もかもがぼんやりと見えたような気がする。この頃の学生といったら、貧乏で暇を持て余しているというのが現実だった。

バイトも残り10日ほどになって、皆でどこかに遊びに行こうという話があった。
牧場の生アイスクリームを食べ、清里の駅から左手にあるどこにでもあるスーパーでちょっとした土産を買い、ワインがものすごく安かったことを覚えている。あまり女の子と遊んだこともなかったので、何が楽しいのかよくわからないといった状況だった。まだまだ子供だったのだと思う。
つづく